スエズにおける国連の栄光の反面では、ハンガリーにおける国連の挫折があった。当時ハンガリーでは、非スターリン化、民主化の声が高まってゆき、政権指導層の圧政に対する批判が、ようやくはげしいものになっていった。ハンガリーの知識層と学生は、ポーランドの一〇月政変の結果、より民主的なゴムルカの復帰が実現したのに勇気づけられて、ソ連とハンガリーとの関係の平等化、自由選挙の復活、言論の自由などを叫んだ。首都ブタペストにおける一〇月二三日のデモは、政治警察が発砲したために、民衆による反乱に変っていった。
反乱はソ連軍が介入したために、ますます民族主義的色彩を強め、全国的に拡がっていった。ソ連は一時はハンガリーを撤退したが、スエズ戦争の開始とともに、新しいハンガリー政府の要請なしに、より強力な軍隊でもって再介入してきた。アメリカ、イギリス、フランス三国は、ソ連がハンガリーの自由と独立をふみにじっていると安保理事会に提訴し、ハンガリーのナジ新政権も、ワルシャワ条約機構からの脱退と、ハンガリーの中立化を国連に通告してきた。ハンガリー首相は、安保理事会が、ソ連とハンガリーに対して、ソ連軍撤退のための交渉を始めるように呼びかけることを要請した。
ソ連軍の撤退を求める決議案が、ソ連の拒否権によって葬られたので、安保理事会は第二回緊急特別総会を招集することにした。総会は、ハンガリー人民の自由を抑圧するためにソ連軍が使用されていることを強く非難する決議を採択した。しかし、総会決議が採択された一一月四日、強力なソ連軍によるハンガリー一斉攻撃が開始され、ナジ政権に代って親ソ的なカタール政府が樹立された。カタール政権は、ハマショルド事務総長がオブザーバーを派遣することを内政干渉だとして拒絶した。事務総長が任命した調査のための五ヵ国委員会は、翌年六月に詳細な報告書を提出し、ハンガリーの反乱が、「自発的な民族的蜂起」であったこと、反動的なものではなく民主的社会主義の樹立を目指していたこと、ソ連軍の介入がナジ政府の意志にさからって行われたこと、などを明らかにした。
その後一九六一年まで、ソ連とハンガリーによる国連総会の無視を遺憾とする決議が毎年総会によって通された。しかし国連加盟国には、ハンガリーにつくられた既成事実を実力でくつがえすだけの決意はなかった。国連による実力の行使は、第三次大戦の危険を冒すものであったから、避けるべきだという意見が圧倒的だった。つまり、ハンガリーの悲劇は、その真相が国連報告書によって広く世界に知られ、それによって道義的な影響をカタール政権に及ぼしたであろうことを除けば、国連の存在にもかかわらず、国際政治の冷厳な力関係がまだ根強くヨーロッパを支配していることを感じさせる事件だった。