財政構造改革法

自治体の負担は一九九六年だけで一兆千七百億円にものぼり、市町村のなかには負担増をまかない切れず、児童手当、高齢者対策などさまざまな福祉支出を削減するところが続出した。一九八九年は、四月一日から三%の消費税が導入された年だが、同じ日に、竹下登政権が提出した「補助金一括法」を自民党と当時は野党だった社会党まで協力して国会で可決した。この法律によって、初めは「一年限り」、次には「三ヵ年の延長」だった福祉の切り下げが恒久化されてしまったのである。その後も、日本の社会保障制度は大きな荒波に揺すぶられる。


それは本書の主題である橋本龍太郎首相の六大改革、とくに行政改革と表裏の関係にあった財政構造改革と直接関係することだった。政府の財政制度審議会(会長豊田章一郎・経団連会長)は一九九六年七月に「財政構造改革を考える、明るい未来を子どもたちに」という報告書を発表した。この報告は、同年十月には『財政構造改革白書』として市販され、その後の日本の進路をめぐる政策論争の基礎にもなったものだが、要するに国家財政は危機に直面しており、少子・高齢化がピークを迎える二〇二五年に向けて厳しく歳出削減を求めたものだった。


この報告書を背景に、橋本首相は自ら会長になって「財政構造改革会議」を一九九七年三月に発足させたことはすでに見た。歳出の見直しには「聖域を設けない」とうたわれていたが、主な標的は福祉や年金を中心とする社会保障費たったことは、一九九七年十一月に国会で成立した財政構造改革法が雄弁に物語っていた。同法は、二〇〇三年度までに、単年度の国と地方の財政赤字の合計を国内総生産(GDP)の三%以内に抑えることを基本目標に掲げた。この三%は、一九九九年一月から欧州連合で始まる統一通貨制度に参加する加盟国の基本条件と同じである。


— posted by wgft at 11:05 am