アメリカもヨーロッパも日本も、技術的革新、規制緩和、企業変革などがもたらす大変化の影響を受けている。しかしもしも分析の単位が国家ならば、アメリカの競争上の問題はヨーロッパや日本よりも決して悪くはない。今この本を執筆している時点で、ヨーロッパの失業率はアメリカのほぼ二倍である。一九六〇年代半ばから八〇年代終わりまでの間、ヨーロッパはアメリカがっくり出した仕事のたった五分の一しがっくり出せなかった。
日本の農業、銀行、流通、小売り、コンピューター、通信などの業界はアメリカ企業にずっと後れをとったままである。戦略的貿易論者たち、たとえば産業政策の分析屋や自称アメリカの競争力の保護主義者などにたまに出くわすと、我々は彼らに決まってこう質問する。「いったい、どこの国との間で競争の問題を交換したいというのですか。就労率の成長が止まって大陸の近視眼的発想が増大しているヨーロッパとですか。それとも巨大なリストラ問題にまだ直面している日本とですか」。議論は尽きない。
貿易評論家が心配しているのは、アメリカの競争力が絶対的に落ちていることではない。実際に今日のアメリカ人は親の時代に比べればかなり裕福な暮らしをしている。心配しているのはアメリカ経済の支配が比較的だんだん小さくなっていることである。しかし、実はただ単に他の国々が追いついてきているだけなのである。これは資本や技術や管理能力が国際的に移動している今の世の中では当然予想されたことである。
台湾、香港、そして中国南部の華僑の何ものにも束縛されない資本主義は、日本と同じような経済の奇跡を生み出した。保護主義的な政治家や学者は競争上の問題と見るが、世界中どこでもそれは経済発展と考えられている。自国では再配分の財政政策を最も支持している政治中枢のリベラル派が、実は他の国々がアメリカとの消費ギャップを埋めてきている事実に最も困惑しているのは逆説的である。
市場開放、知的所有権、資本市場の開放などはめざす価値のあるゴールではあるが、究極的には付随的なものでしかない。より開放的で調整のとれた貿易政策や、悔い改めて日本が自由貿易国になっても、アメリカの繁栄の助けになることはほとんどないだろう。し かし、アメリカ式のライフスタイルをつくり出そうとしている地域や国々で、経済発展を援助したり支持したりする方法をアメリカの労働者や企業が見つけたら、アメリカの繁栄はかなり高まるだろう。
ボーイング、GE、P&G、コカーコーラのように飛躍的な経済成長を遂げているアジアに乗り込んだ企業は、ワシントン生まれの貿易政策よりもはるかにアメリカの繁栄に貢献するだろう。今日の貿易の大半は企業間の問題であり、親会社と各国に散らばった子会社との間で起こるので、アメリカ企業の海外投資の成長がアメリカ国内での仕事の創設を強く刺激するのである。
決してアメリカ企業の競争力が疑いないと言いたいわけではない。しかし競争力は断じて産業政策の問題ではなく、企業の問題である。何億ものECU(欧州通貨単位)やブリユッセルの聡明な官僚たちをもってしても、HDTVにヨーロッパ基準を設けようという企みは成功しなかった。何十億ドルを注いでも、保護主義者がどれだけ説いても、日本のコンピューター産業はメインフレーム中心の世界観から長い間離れられなかった。そしてアメリカの自動車メーカーに品質問題を真剣に考えさせる上うになったのは、保護主義によって利益が増しだからではなく、そのままではじり貧になってしまうという恐怖からであった。