規格化と互換性の遅れ

アメリカは大西洋にも振り向ける必要があったので、日米の戦力は量的にはほとんど互角であったと言える。しかし上げた戦果は比較にならないほど大差がついた。アメリカの艦艇に対して日本の潜水艦が上げた戦果はアメリカの戦果の五分の一にすぎず、輸送船や商船に至っては二十分の一であった。アメリカの潜水艦によって日本近海に設置された機雷による被害も加えれば、その差はもっと開く。日本の潜水艦は九割が失われたが、アメリカの損害はわずかであった。通商破壊戦の軽視という戦略の誤りを割り引いても、この差はあまりにも大きい。量だけでなく質でも日本は圧倒的に敗れたのである。


総力戦は大量生産と大量消費が理想的に実現する世界。もし総力戦研究所などの議論やレポートが質的な差にも言及していれば、国の方針を変えることは出来なかったにしても兵器の運用は少しは異なったものとなっていたに違いない。戦前の日本では、第三の科学革命の渦中でアメリカとイギリスの産業と技術が大きな質的な転換を遂げつつあったことへの認識が欠けていた。海軍の山本五十六大将は、アメリカ滞在中にフォードをはじめデトロイトの自動車工場を見学していたそうである。しかし、軍人である彼は、それが技術に新しい科学をもたらしつつあったことは知る由もなかったであろう。大量生産と大量消費の時代を経ているかいないかの差は大きい。ちなみに、総力戦こそ大量生産と大量消費が完全に実現する世界である。


大量生産を経験していない日本の技術は、アメリカやイギリスの技術に当時少なくとも30年は遅れていたと見るべきであろう。日本が追いつこうとしていた西欧技術も日本と劣らない速度で進歩していたのである。以下、具体的にこの問題を少し詳しく考えよう。戦前の日本の機械工業では、大量生産の前提である規格化が大きく遅れ、組み付けは仕上工の熟練にゆだねられていた。仕上工が、やすりなどの工具を使って部品の手直しと「すり合わせ」を行っていたのである。アメリカから技術を導入した企業の間で規格化を行って互換性を確立しようとする動きも起こるが、自分たちの出秉がなくなるのを恐れた仕上工が様々な形で抵抗し実効が上がらなかったようである。


これがそのまま戦力の差となって、最も基本的な武器である銃火器にあらわれた。日本の陸軍が太平洋戦争を通じて使っていた三八式歩兵銃は、職人が一挺ずつ部品を調整して作っていたので、部品の互換性が同一工場の製品の間にしかない。工作機械を使うことを除けば、織田信長の時代の鉄砲鍛冶と変わりない。銃の命中度は射撃の練度だけでなく、加工の精密さにも依存することは明らかである。熟練工が不足した戦争後期、このような半手工業的な方法によって製造された小銃が戦力に影響しなかったはずはない。イギリスやアメリカではすでに十九世紀初めからライフル銃やマスケット銃の部品完全互換製造が行われていたことはすでに述べた。日本は銃器の製法で百年以上の後れをとっていたことになる。


この遅れの背景には、労働集約型技術と資本集約型技術の相違がある。イギリスやアメリカでは産業革命以後の発達した工業力を支える労働力が慢性的に不足していただけでなく、精度のよい加工が出来る熟練工が不足していた。このことが規格化への強い圧力になり、同時に規格化を達成する工作機械の発達を促した。熟練工の層が厚く、熟練が安く簡単に手に入った日本では、工作機械の発達が英米に比べて遅れた。小銃だけでなく機関銃についても同様である。部品の互換性がないだけでなく、あるいはないからかもしれないが、日本では驚くほど多くの種類の機関銃(そのうちの口径の大きなものは機関砲とも呼ばれていた)を作っていた。







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二四時間体制の畳屋

きれいな天然石があしらわれた、赤、白、チャコールグレーの三種類の時計が紹介された。用意された時計は、合計で五〇〇〇個。番組開始からわずか五分後、セールスプロデューサーの許に情報が入った。ホワイト四〇〇、レッド二五〇、チャコールニ○○。まさに飛ぶように売れている。一〇分後には、オーダー数が一気に二〇〇〇を超えた。セールスプロデューサーの「ここでチャコールグレー完売です」の指示が、アナウンサーに伝えられた。売れ行きをチェックしていたムラキさんも、大満足の様子だ。三二〇名のオペレーターを擁する巨大コールセンターにも、電話が殺到していた。購入希望者から電話を取ったセールスプロデューサーは、それをスタジオに回す。アナウンサーが購入希望者と話し始めた。


「お待たせしました。こんばんは。。お客さまのお名前は?」「由美子です」「今回は、どの時計をお選びいただきましたか?」「レッドです」「どんなお洋服に合わせようと、お考えですか」「黒でも、いいかなと思って」アナウンサーはすかさずスタジオに用意されていた洋服の中から黒いものを選び、赤い時計を合わせる。「いいですね。里一のブラウスに、赤の時計がワンポイントになって、人目を引きますね」究極の対面販売だ。二〇分過ぎには、赤も売り切れた。残りは白だけ。「もう間もなく、ご用意できる数が二〇〇を切ります」アナウンサーの声に後押しされたかのように、四〇分すぎには、全てがソールトアウトとなった。一時間かけて売るつもりが早々と終了したため、アナウンサーはすぐにバックアップの商品の紹介に移った。


わずか四〇分で、五〇〇〇万円近くを売り切ったのである。ムラキさんは、こう言い切った。「景気が悪いなんて思ったことは一度もない。人にとって消費は快楽だから。良いものがあれば、止められない」深夜一一時、大阪の街で、一台の軽トラックが和食チェーンのお店に着いた。すぐさま運転手たちがお店に入って、汚れたり痛んだりした畳を運び出していた。この日、運び出さなければならない畳は一九枚。店の人が終電で帰るまでの一五分間で行わなければならなかった。回収された畳は、兵庫県伊丹市にある巨大畳工場に持ち込まれた。この工場では一日最大で一六〇〇枚の畳を張り替えることができる。


先はどの畳は徹夜で修復され、翌朝一一時までに元のお店へ運ばれる。ちなみに畳一九畳の張替え料は一一万四〇〇〇円。二四時間体制、一晩で畳を張り替える深夜サービスを二〇〇一年から始めたのが、TTNコーポレーションである。この深夜の畳ビジネスが飲食店などに受けて、急成長した。年商は始めた当時の四倍以上の二二億円に達している。ジリ貧だった畳店をアイディア一つで盛り返したのは社長の辻野秀人さん(五五歳)だ。「不景気になって、飲食店は休まなくなった。畳を替えたくても、閉店後からオープンまでの深夜にやっている畳屋はなかった。そういった市場はガラガラに空いていたわけです」深夜の畳ビジネスは、まだまだ認知されていない。社長の長男で常務の辻野佳秀さんは、営業に駆け回っている。ある日、神戸の割烹ホテルに出向き、初めての商談に臨んだ。お客のいなくなった時間帯で、畳の張替えを行えることを伝えると、感触は良かった。ホテル側も「フットワークの軽い畳屋さんつて、いないんですよ」と話していた。


深夜に狙いを定めたTTNコーポレーション。首都圏にも二四時間体制の畳ビジネスを拡大していく予定である。静岡県浜松市の国道沿い、夜九時すぎ。ほとんどの店が閉まったなかで、煌々と明かりを放つビルがあった。その光に吸い込まれるように、夜な夜なたくさんのお客が集まってくる。雑貨屋ブルドック葵東店。三〇〇坪の広大な建物に、五万アイテムの雑貨がならんでいる。ディスカウントの店ではない。若い女性に人気がありそうなバックやアクセサリー、キャラクターグッズなどが売られている。営業時間は、午前一一時から午後一一時まで。しかし、何といっても夜が人気だ。




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