わたしがはじめてブータンのことを知ったのはいつのことだったか、定かな記憶はない。一九六六年四月に大学に入学して、東洋仏教史、ことにチベット仏教史を専攻した以上、チベット仏教圏の一部であるブータンのことは、在学中に何かで読むなり、どこかで聞いたりしていたことは間違いないであろうが、記憶にはない。一九六九年九月にフランスに留学し、三年間チベット、ネパール、インド関係の講義をいくっも聴講したので、その中で必ずやブータンへの言及があったであろうが、またしてもこれといった記憶がない。
それでも、ブータンの存在を知っていたことは確かで、一九七二年九月にフランスから日本への帰路インドに立ち寄った際に、ネパール、シッキム、ブータンといういわゆる「ヒマラヤ三王国」も訪れようと思い、ニューデリーのブータン公館(当時はまだ大使館ではなかった。大使館となったのは一九七八年のことである)に入国許可を申請に出かけた。チャナキャプリという外国の大使館・公館が立ち並ぶ地区のはずれにあったブータン公館は、ブータンのゾン(城塞兼僧院)を模した建物で、印象的であった。しかし、それ以外にはその時の記憶は一切なく、入国許可に関しては、当時、鎖国下であったため、もちろん門前払いを食らい、一枚の折り畳みのブータン案内パンフレットをもらっただけである。
ブータンは、秘境とされるチベット文化圏の中でも、もらとも入国が難しい秘境中の秘境で、一九七〇年代以前にブータンを訪れた外国人は、ほんの数えるほどしかいなかった。その上に、一九七二年の七月二一日に第三代国王ジクメードルジエーワンチュックがアフリカのナイロビで客死し、ブータンは喪に服し、弱冠一六歳にして即位した第四代国王ジクメーセングーワンチュックの治世が始まったばかりであった。当時のわたしは、このブータンにとっての最重要出来事すらも知らなかった。今振り返ると、若かったとはいえ、チベット研究者としてはあまりにも無知であった。いずれにせよ、これがわたしのブータンとの最初の接触であった。
今から三五年前、ブータンは本当に秘境であり、外部にはその存在すらほとんど知られていなかった。現在少しは知られるようになったとは言え、本書の読者も含めて多くの人にとっては、ブータンは依然として「未知」の国に近いであろう。それ故に、本書を読み進んでいただくために、まずはブータンという国を手短に紹介することにする。ブータンは大ヒマラヤ山脈東端近くの南斜面に、インドと中国というアジアの二大大国に挿まれて位置する小さな王国である。北は中国のチベット(西蔵)自治区に接し、東西および南はインドのアルナチャループラデシュ、西ベンガル、アッサム、シッキムという四つの州に囲まれている。
面積は約四万六五〇〇平方キロメートルで、九州(四万二〇〇〇平方キロメートル)よりやや大きく、人口は約六〇万人(二〇〇五年の統計)であるから、人口密度は一平方キロメートル当たり一三人ときわめて低い(ちなみに日本の人口密度は三四三人。二〇〇五年)。国土の七二パーセントは森林で、二〇パーセントは万年雪に覆われており、農耕地は八パーセントしかないが、ブータン全人口の五人のうち四人が農業により生計を立てている。七世紀前半にチベットのツェンポ(皇帝)ソンツェンーガムポにより、各地にお堂がいくつか建てられた、と伝えられているが、詳しいことはわからない。八世紀後半に、インドの高僧パドマサッバヅアより、本格的に仏教が伝わった。二一世紀以後、チベット大乗仏教の各宗派があちこちの谷に広まり、寺院も建てられたが、群「宗」割拠の状態で、国としてのまとまりはなかった。