中華民国から新中国

日清戦争の翌年一八九六年十三名の官費留学生を日本に送ったのが最初といわれているが、これは東京高等師範学校長である嘉納治五郎が当時の文部大臣兼外務大臣の西園寺公望の依頼を受け、この十三名の教育を引き受けた。一八九九年、最初の七名が優秀な成績で卒業し、同年更に十一名の留学生を引き受けた。一九〇二年一月に制度・内容を充実して神田三崎町から牛込西五軒町に移転して学校名を「宏文学院」とした。また留学生の名前はすべて明らかになっていないが、教育内容は多岐に亘っていた。(日本の留学生に関しては神戸大学の発達科学部研究論文(二〇〇三年)を参照した。)有名な魯迅もこの「宏文学院」で日本語を学びその後一、九〇四年に現在の東北大学医学部に移っている。


又、孫文が東京で中国同盟会を設立(一九〇五年)し、留学生や華僑を集めて漢民族の国家を作るために運動したことは広く知られているが、孫文の内閣で十八名の部長と十五名の副部長は各国の留学生組が占めたという。(二〇〇五年四月一四日号の「南方週末」薫書華)この意味では、中国では公式に語られることが少ないが中国革命に日本も少なからず貢献してきたといえる。辛亥革命後、確かに形は「中華民国」(一九二一年)という国家ができあがったが、中身は安定しておらず、また、政治的には封建体制をそのまま引きずっていたので、国家が安定するには毛沢東による中華人民共和国成立(一九四九年)を待たねばならなかった。私は中国が社会主義国家の体制をとらざるを得なかったという考えであるが、その理由としては、中華民国にはなったが、国としての体をなさない状況の下でしかもその中身は、封建社会からの脱却ができない状態にありながら且つ各国が中国に侵略しているさなかに軍閥の利権争いに明け暮れていた。


その為、中国という国を守るには、封建社会と旧軍閥と諸外国との戦いを同時にせざるを得なかったのであり、中国を統一する為の思想として社会主義体制をとらざるを得なかったということである。またその体制が取れた理由のひとつに、一九一七年のロシア革命の成功が中国の勤労者たちに、自らがまとまる為の希望を見い出させたことが挙げられる。多くの憂国の士の趙世炎、王若飛、李立三、陳毅、周恩来、郡小平等海外留学組みが、欧州の第一次世界大戦(一九一四年)後の不況のさなか、過酷な資本主義社会を自ら体験したので、このことも中国が社会主義体制に向かう大きなきっかけになったことであると私は考える。


上記は主にフランス留学組みだが、新中国成立後、長年中日友好協会名誉会長を務めた郭沫若も一九一四年に日本の第一高等学校予科で日本語の勉強後九州大学医学部を卒業している。更に中華人民共和国成立後最初(一九五二年)に中国に日本の代表団を受け入れた孫平化も現東京工業大学に一九三九年に留学し一九四三年に帰国している。又、留学としてよりも一時的亡命に近かったが中国共産党の創設者の一人である陳独秀(後にトロキストとして党から除名)も東京高等師範学校や早稲田大学で学んでいる。同じくメンバーの李大釧も早稲田大学に学び、周恩来も一九一七年から二年間東亜高等予備学校で日本語を中心に学んだ。蒋介石とは孫文が設立した黄墟軍官学校の同僚である。


ちなみに蒋介石も一九〇六年に清朝政府が軍人養成のため設立した保定軍官学校に入学し、翌年、清朝の官費留学生として日本に渡っている。まず日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学び、後に新潟にあった陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校となった。蒋介石もまた中国同盟会に名を連ねるのだが、軍人としての素養は日本で育まれたと言われている。もしこの留学組みがいなければ、中国の社会は今どうなっていたか分からない。中国の近代革命がなされない中で(各学者や歴史研究家の間では短い期間だがブルジョア革命はあったと言う人もいる)、中国を欲しいままに侵略している諸外国と彼らが戦わざるを得なかったこの時ですら、中国の多くの農村は国家の一大事の蚊帳の外であった。この事実が後に毛沢束の革命理論に結びついて行くのであると私は考える。


— posted by wgft at 10:43 am