父親と母親は、結婚した直後は代議士の妾宅がつらなる永田町の裏道、いまの参議院議員会館の裏手から日比谷高校の横を抜ける道のあたりに家を借りていたらしい。その家賃が父親の月給よ旦局かったと、本来なら世間様に対して中しわけなく思うべきところを、むしろ自慢たらしく母親がしゃべったことがある。どうせ、どちらかの親元から出ていたのだろう。
小石川の家の維持費や生活費さえも、親がかりの面が多かったのだろうが、まず一九三九年に母方の祖父、つまり母親の父が死ぬ。一九四二年には父方の祖父、すなわち父親の父が落選して一九四四年に死ぬ。これでいっぺんにハシゴが外れた。
死んだとき祖父には、選挙費用などで当時のカネで八万円の借越勘定が、父親の勤める銀行にあったという。ふつうなら祖父が住んでいた赤坂の借家を引き払い、戦時下の物資不足に乗じて金目のものを売り飛ばし、多少とも借金を圧縮したうえでしっかりした返済計画を立てるべきである。
ところが父親はそうした手をまったく打たなかったばかりか、祖父の晩年に出入りしていた山師の勧めるマンガン鉱山とやらへの投資で一挙に挽回しようとして、傷口を広げてしまった。
なにか起きると夫婦揃ってパニックに陥って打開策など考えられない性格の弱さも、山師が取り入ろうとして持ってくる戦時下では貴重な軍需産業向けルートの食料品の誘惑も、作用したには違いないが、基本的には世間の波風にさらされずに中年まで過ごしてきて、実務的な判断力と処理能力に徹底的に欠けていた甘さが災いしたというほかない。
祖父の死後すぐに手を打ってできる限り返済して誠意を示していれば、祖父が属していた政党とは密接な銀行だったから、ある程度は待ってくれたろう。そのうちに敗戦後の超インフレに助けられて、なんとか収拾できたかもしれない。しかし、なにもしていないのでは催促も厳しくなる。
山師にやられた被害や、空襲で焼けた小石川の家の跡に戦後にバラックを建てたときの出費もある。そうした資金は、銀行員にはあるまじきことにいわゆる町金融に頼ったようで、返済が滞るや否やたちまち強硬な取り立てに会い、差し押さえを食らう羽目になった。
こうなるとパニック癖はいよいよ高じて蟻地獄に堕ちたようなことになる。借金返済の一時しのぎに手当たり次第に借りて、多重債務者になる。もちろん借金は敗戦直後の極端な高金利で幾何級数的に嵩む。
こうした醜態が勤め先に知れていたたまれなくなる。結局自分の力で収拾できず、銀行が指定した債務処理のヴェテランに家屋と土地の権利証と実印と印鑑証明を預け、妻子を残して一人で浜田の本家に逃げる始末になった。