夢を記録して報告するという作業

清水氏はアパシーに共通する特徴として「母性優位で父性の乏しい家族状況」を挙げ、その治療のためには「内的な父親像の回復」と「それに支えられて母親から離脱すること」が大切だと指摘している。氏が発表している症例は、アパシーと父性の不足との関係、および内的な父親像の回復が治癒のためにいかに大切な働きをしたかを示す見事な事例となっている。ここにその要点を引用するので、父性の大切さを感じとっていただきたいと思う。Kは両親共働きの家庭の一人っ子として育った。父親は感情を抑制する傾向生育史および症状が強く、自己主張の少ない人である。母親は家庭外での活動を好み、女性的な細やかさに欠ける印象である。家族のあいだでは怒りや攻撃的感情を表すことがタブーになっており、父母が言葉を荒らげて言い合ったりするのを見たことがない。


父母は息子を強い子に育てたいと考えて、三歳ごろから親とは別の部屋に寝かせていた。彼は幼少期より父母との接触が少なく、親に甘えることがあまりなかった。第一反抗期は見られなかった。小学校のころから他人に対して「ノー」と言うことができないほうだったが、中学校になるとその傾向がさらに強壇った。他人との対立や争いを避けたいので、相手に合わせようとしてきた。そのため大学に入ってから、生協活動に誘われたときも断ることができず、その活動に関わるようになり、重要な役職をやらされているうちに勉強のほうがついていけなくなって、とうとう学校に行かなくなり、アパートに引き龍もって、昼夜逆転した生活を送るようになった。


Kは清水氏の治療を受けることになり、夢を記録して報告するという作業父親イメージの変容も並行して行われた。それらの夢は約一六〇にのぼり、その中には、影として否定していた攻撃性を自我に統合し、それによって男性性が発達するというテーマや、アユマ(内的女性像)を救いだして、それによって新しい関係が結ばれるというテーマ、そして父親像・母親像の変容のテーマが見られるが、ここでは父親像の変容を表す夢のみを辿ってみたい。夢1(第20回面接) 僕は車を運転しているが、扱いにくい車で、思うように動いてくれない。N町(Kの故郷)役場の裏の駐車場に入ろうと思うが、入り口でないところに入りこみ、歩道で立往生している。側に父のような、そうでないような人が立っており、「困ったね」と言っているところで目が醒める。


この夢に出てくる父的な人物は現実の父に近く、「困ったね」と言うだけで力にならず、助けてくれる存在ではない。夢2(第36回面接) 僕は車を運転しており、助手席には父がいる。僕はその夜ヘリコプターを操縦することになっているが、その日僕は車を長時間運転しっぱなしの状態であったので、父が大丈夫かと聞いてくる。僕は大丈夫だと答えている。 夢1と同じように車を運転しているが、今度は父は助手席に乗っており、何もしてはくれないが、気づかってくれてはいる。父親像がほんの少し変化しはじめているようだ。夢3(第38回面接) 自分がFIレーサーだと思い込んでいる。僕のスポンサーの社長のような人がいて、僕に食事をしようと言う。食事を待ちながら、話をしている。社長は頑張れよと僕を激励する。食事がなかなか来ないので催促し、急いで食べる。階段を降りて走っていくと、白いツナギを着たレースの監督が、僕の来るのが遅いといって気をもんでいる。


この夢では父親的イメージの人が二人出てくる。スポンサーの社長は後ろ盾となり、励ましてくれる存在。監督は心配し気をもんでいるだけで、あまり役に立たない。現実の父親に近い存在である。夢4(第44回面接) 僕が自分のアパートの部屋で寝ていると、父と母がやって来る。(場面変化)僕の実家の感じであるが、たくさん部屋がある。父が奥の部屋で寝ている。電話がかかってくる。僕が出ると、従弟が死んだのですぐに来いとの連絡。電話に出るように父を起こすが、なかなか起きない。父が機嫌悪そうに起きてきて、出かけるということになり、ドタバタする。従弟の死は、自我から遠い水準で、何かが変わろうとしていることを示しているようだ。Kは連想の中で「ぐうたら寝ている父は今の自分を表しているようにも思う。自分で自分を起こしているみたいだ」と語る。まさに、心の中の眠っている父性、父親イメージを起こしている印象である。



— posted by wgft at 10:53 am  

ケアマネジメントの導入

市民間の介護ニーズをいかにして解放するかということも、介護保険のポイントのひとつであった。それは財源を租税方式とするか社会保険方式とするか、ということより、はるかに重大な問題であった。一家心中に追いこまれる前に、家族が、そしてできれば高齢者自身が、サービスを社会に「気軽に請求」できるシステムをつくること。そのためには、負担と給付が分かりやすい形で示される必要がある。財源に租税を半分も入れていて、あえてこれを社会保険「方式」で運営することの最大の意義はそこにあったのである。


先にも述べたが、医療では診療所と病院というところに、すべてのサービスが集中しているが、福祉ではかなり広い地域に各種の事業所が散在していて、サービスがIヵ所に集まっていないので、個人ではこのような多様なサービスを利用することが難しい。八十歳を越えた高齢者が主たる利用者であることを考えれば、その困難さは容易にイメージできよう。アセスメント(一人一人の利用者がどのようなサービスを必要としているかの調査。医療でいえば問診、診察、検査、相談。介護でいえばニーズ評価)からケア(治療、介護)にいたる一連のプロセスは、両者とも同じである。しかし医療ではそのプロセスが病院または診療所という施設の内部で一体化しており、利用者にとっては便利であるとともに、それぞれの過程の区別がつかない。


しかし各種の医療と福祉サービスを統合化した介護保険では、要介護認定、ケアプラン作成、ケアの実行、というプロセスが明確に区別されるのに伴って、サービスに関わる資源も三つの過程に分けて配置されている。しかし、利用者にとって、そのしくみの必然性はなかなか理解し難いものであるだろう。そのうえ各種のサービスがいったいどんなものか、たとえばデイケアとはなにか、デイサービスとはどう違うのか、といったイメージすら持っていない利用者がほとんどである。そこで専門的知識と経験のある助言者(介護支援専門員ケアマネージャーを創設し、その助言により、利用者本人の自己決定を基本として、複数のニーズに対応する複数のサービスを、適切に組み合わせるケアプランの作成が不可欠となる。


それに加えて、これも先に述べたことであるが、医療の場合は、サービス内容の選択において、医学という世界的に確立された学問としての権威が、中立的な立場で大きな影響力を持つが、介護の世界では、サービス利用者本人(しばしば家族も含まれる)の自己決定が、格段に大きな比重を占めるということがある。このような条件下では、これまでの福祉の世界における、使えるサービスをできるだけ多くかき集めるというやり方ではなく、「自立支援」を基本的な目標として、それを実現するために過不足ないサービスを「出し入れ」するという、調整的な利用者との合意形成の手法が必要になる。それがケアマネジメントである。


ケアマネジメントとは、老人保健福祉審議会での公式的な定義としては「ケアを必要とする人が、常にそのニーズに合致したサービスを受けられる一連の活動」、要するにサービス利用者にとっての「ケアサービスの統合化」である。介護保険の利用においては、被保険者のサービスを受ける権利の確認行為としての「要介護認定」と、一人一人の利用者の個性や要望に、家族もふくめた環境条件を考慮したケアプラン(介護サービス計画)作成というふたつの段階が設定されている。要介護認定は全国統一の方式が義務化されるが、ケアプラン作成は個別性、地域性などを十分に取り入れたものであるべきとして、まったく現場の自由裁量に委ねられている。


— posted by wgft at 03:55 pm  

「財閥」系企業の支配的地位

そこで残りの七六・一%の担い手を調べてみると、まず売上げ(輸出を含む)順の上位五〇〇社で、前記の輸出上位一〇〇に入らなかった会社を抽出してみた。そこには三九七社(政府系ゼロ、外資系三二社、民間系三六五社)があり、輸出の約一五・五%(三億六四〇〇万ドル)を占めていたことがわかった。そうすると、輸出の残りの約六一%が、中小企業・’商人(個人)によって占められることになる。台湾では、中小個人貿易商社が約一万二〇〇〇社あり、輸出貿易のほぼ二一%を占めるといわれる。したがって最後に残った約四〇%を占める輸出は、中小企業と個人企業によって担われたことになる。このように台湾の輸出市場は中小企業、個人商人のもつ役割は大きく、その意味が吟味されてよい。


さしずめ指摘できる一つは、台湾経済の裾野の広がりであり、いま一つは国内市場の大企業(主として政府系企業)の寡占構造に関連しよう。前者は雇用の多くは中小企業によって吸収され、それによって労働集約的製品(日常品・レジャー用品等)を生産し輸出する。また他方では、国内市場の過半は政府系と民間大企業によって占められると推定され(両者合せて約六二%占有率)、中小企業は輸出市場に自己の生存条件を求めるはかない。


それに、資金運用面において、銀行・保険を含む金融市場は、ほとんどが政府系が掌握している状況のもとでは、輸出による決済資金の円滑な供与が、中小企業の輸出依存をいやおうなしに高めている。輸出は%(信用状)の抵当によって、金融機関から前借りできるし、また輸出荷送りさえ終れば、商品の代金はすぐ手に入れることができるからである。


国内向け売上げは、半年から一年の売掛け期間が慣行として定着しており、利息負担のほか、回収までのリスクも大きい。結局、中小企業にとって、輸出への圧力はこうした国内金融事情(構造)からつよく押しかかってくるのである。右の事情をみると、中小企業の輸出活発化は台湾経済の国内構造による対外(輸出)的表現であるといえる。この方面の一層の研究が求められている。


これに対して、韓国の場合、むしろ「財閥」系企業が大きな比重を占め、支配的地位にある点で、台湾の場合とは対照的な構造を呈している。韓国の輸出依存度(GNPに占める輸出の比重)がここ数年、急速に高まってきたことは、前に述べたが、それが必ずしも中小企業によるのではなく、むしろ大企業によるところが大きいことは、表において看取できる。


同表によると、中小企業(雇用人数三〇〇人以下)の輸出に占める比重は、韓国の輸出依存度の高まりにもかかわらず、低下ないしせいぜい横ばい程度にあり、三〇%前後にとどまっている。輸出のほぼ七〇%、またはそれ以上が「財閥」系大企業ならびに外資系(とりわけ日本資本)企業によって占められている。台湾とは全く対照的な構造にあるといえる。


韓国経済において「財閥」系企業が内外とも重大な地位にあることは、いわば常識になっている。GNPに占める財閥企業の総売上げの比率をもって、便宜的に財閥の市場支配集中度の尺度にした場合、財閥の数にもよるが、台湾の三一%前後(一九八二-八三年)に対して、韓国は五〇%前後占めているとみられ、かなり高い。


「韓国型の経営」はほんとうに称賛に値するのか?
日本企業は急成長する過程で従業員への利益還元を優先した。 ところが韓国の財閥系企業はそうではない。 グローバルスタンダードと財閥体質、つまり企業の利益と株価、そしてオーナー一族の冨の蓄積を第一優先にしている。







— posted by wgft at 12:52 pm  

何ものにも束縛されない資本主義

アメリカもヨーロッパも日本も、技術的革新、規制緩和、企業変革などがもたらす大変化の影響を受けている。しかしもしも分析の単位が国家ならば、アメリカの競争上の問題はヨーロッパや日本よりも決して悪くはない。今この本を執筆している時点で、ヨーロッパの失業率はアメリカのほぼ二倍である。一九六〇年代半ばから八〇年代終わりまでの間、ヨーロッパはアメリカがっくり出した仕事のたった五分の一しがっくり出せなかった。


日本の農業、銀行、流通、小売り、コンピューター、通信などの業界はアメリカ企業にずっと後れをとったままである。戦略的貿易論者たち、たとえば産業政策の分析屋や自称アメリカの競争力の保護主義者などにたまに出くわすと、我々は彼らに決まってこう質問する。「いったい、どこの国との間で競争の問題を交換したいというのですか。就労率の成長が止まって大陸の近視眼的発想が増大しているヨーロッパとですか。それとも巨大なリストラ問題にまだ直面している日本とですか」。議論は尽きない。


貿易評論家が心配しているのは、アメリカの競争力が絶対的に落ちていることではない。実際に今日のアメリカ人は親の時代に比べればかなり裕福な暮らしをしている。心配しているのはアメリカ経済の支配が比較的だんだん小さくなっていることである。しかし、実はただ単に他の国々が追いついてきているだけなのである。これは資本や技術や管理能力が国際的に移動している今の世の中では当然予想されたことである。


台湾、香港、そして中国南部の華僑の何ものにも束縛されない資本主義は、日本と同じような経済の奇跡を生み出した。保護主義的な政治家や学者は競争上の問題と見るが、世界中どこでもそれは経済発展と考えられている。自国では再配分の財政政策を最も支持している政治中枢のリベラル派が、実は他の国々がアメリカとの消費ギャップを埋めてきている事実に最も困惑しているのは逆説的である。


市場開放、知的所有権、資本市場の開放などはめざす価値のあるゴールではあるが、究極的には付随的なものでしかない。より開放的で調整のとれた貿易政策や、悔い改めて日本が自由貿易国になっても、アメリカの繁栄の助けになることはほとんどないだろう。し  かし、アメリカ式のライフスタイルをつくり出そうとしている地域や国々で、経済発展を援助したり支持したりする方法をアメリカの労働者や企業が見つけたら、アメリカの繁栄はかなり高まるだろう。


ボーイング、GE、P&G、コカーコーラのように飛躍的な経済成長を遂げているアジアに乗り込んだ企業は、ワシントン生まれの貿易政策よりもはるかにアメリカの繁栄に貢献するだろう。今日の貿易の大半は企業間の問題であり、親会社と各国に散らばった子会社との間で起こるので、アメリカ企業の海外投資の成長がアメリカ国内での仕事の創設を強く刺激するのである。


決してアメリカ企業の競争力が疑いないと言いたいわけではない。しかし競争力は断じて産業政策の問題ではなく、企業の問題である。何億ものECU(欧州通貨単位)やブリユッセルの聡明な官僚たちをもってしても、HDTVにヨーロッパ基準を設けようという企みは成功しなかった。何十億ドルを注いでも、保護主義者がどれだけ説いても、日本のコンピューター産業はメインフレーム中心の世界観から長い間離れられなかった。そしてアメリカの自動車メーカーに品質問題を真剣に考えさせる上うになったのは、保護主義によって利益が増しだからではなく、そのままではじり貧になってしまうという恐怖からであった。




— posted by wgft at 08:50 pm  

自国政府の政策を手きびしく批判する

「これほど苦しんだ民族に対して西欧は、社会主義圏だから、ベトナムがいるからと非難するばかりで、援助もせず、政治的解決もせず目をつむっている。カンプチアが本当に自立するためにもっと力をつけるように手助けするべきだと思うので、この国を離れることができないのです。それに、カンプチアの人々は声を外の世界に伝える手だてを奪われているので、せめて私たちNGOが実情を伝えていかねばと思います」とオネスタは、政治を越えて人道援助を実践するNGOの役割をはっきりと自覚していた。それは、この受難の民族への愛情と共感に裏打ちされていた。


この国の人々と痛みを分かち合おうというオネスタの姿勢は、エバと共通していた。それは、エバがOXFAMに移ったあと、AFSCのスタッフとして来ていた米国女性、ナンシー・スミスさんにも受け継がれていた。八七年、私の四回目のカンプチア訪問のさい、モノロムーホテルで、彼女はしみじみと語った。「米国も中国もソ連も、大国はこの小国のことなど考えていないのです。あれだけ苦難を強いられたこの小さな民族は大国の利害のために、なぜいつまでも国際的孤立という罰を受けなければならないのでしょう。カンプチアの人々は何よりも平和を必要としているのです」本職は大学教師だが、それを一時中断して、家族とも離れてアジアの国に草の根の援助活動に来たのは平和主義の信念に基づいていた。


エバが基礎を築いたAFSCの義肢工場はその後立派なリハビリテーショソーセソターになり、義肢作りの関連で皮革工場、ギプスの関連で陶器工場、さらに、ベルギーの女性獣医による家畜の予防注射プロジェクトなどを、ナンシーが取り仕切っていた。このため彼女は農村まで足をのばすことも多く、「米軍の爆撃以来壊れたまま、穴だらけでひどかった道路も大分よくなりました。ポルーポト時代夫を亡くした女たちや農婦たちが、炎天下、素手で修理しているんです。本当に敬服します」-日々の活動体験から、彼女は涙さえ浮かべてカンプチアの人々の苦しみと希望を語り、自国政府の政策を手きびしく批判するのだった。


八九年一月、五度目の訪問をしたプノンペンには、十七のNGOの七十人余のワーカしが駐在して、連絡を取り合いながら援助活動を続けていた。そのうち八団体がキリスト教系だ。AFSC、CIDSEのほか、「米国教会世界サービス」(CWS)は野菜の種子の開発や動物ワクチン製造など、「米国メノナイト委員会」(MCC)は医師養成や潅漑設備、ココナ″ツ油精製工場など、「ワールド・ビジョン」は小児病院の修理や孤児院建設、「オーストラリアーカトリックーリリーフ」(ACR)はリソ酸工場の建設や水利調査など、「ルーテル世界連盟」(LWS)は農業機械を供給し畜産再建に協力していた。


— posted by wgft at 03:11 pm