何よりも合理化と効率化を優先する国

日本では、昔から、労働を、生活を豊かにするためのものとは考えず、労働者の安全や健康をあと回しにして機械化や合理化、効率化を優先してきた。多くの犠牲者が出て、裁判で争われ、はじめて行政が動き出す、というパターンをくり返してきた。そのことは、戦後になっても少しも変わっていない。頚肩腕障害、じん肺患者、六価クロム災害、振動による白ろう病など、多くの職業災害が後を断たなかった。


上畑鉄之丞氏によれば(『オフィスストレス』労働旬報社、一九八八)、現在のコンピューター労働は、過去の職業災害にくらべると、比べものにならないほど、その影響を受ける人の数が多く、「また健康に及ぼす影響も心身両面にわたり、ひいては生活習慣や生活感覚、ある意味では思想さえも根本的に変えてしまう」という点で、あと追い行政は許されないものだという。


一九七〇年代のはじめに、すでにヨーロッパではVDT研究が行われ、七〇年代の後半にはアメリカでさえ問題にされていたのに、日本では一九八〇年をすぎてから、やっと研究報告が出はじめた。労働組合のとりくみも遅かった。オーストラリアの労働組合が、自国のVDT機器が五万台になったとき、健康への影響にたいしてとりくみはじめたのに、日本では、百万台になってから、ようやく組合として動きはじめた、という対応の遅さであった。


新聞労連は、中でも、本格的にVDT問題にとりくんだ労働組合であるが、「VDT機器の構造等の規格と作業基準」が提案されたのは一九八三年十月である。同じ時期に東京証券取引所の労働組合も、健康管理にかんする確認書を使用者側ととりかわしている。


ソフトウェア技術者の定年は三十五歳、といわれているが、プログラマーも忙しいときには、一日十七時間に及ぶVDT作業を行い(平均でも十三時間三十分)、三十五歳すぎたら、健康がつづかない、というのが現実である。派遣労働などになると、なおさら労働に対する規制が行われにくくなるだろう。利潤のためには効率をあげる。効率のためには、人間も含めて、ギリギリ、ムダを省く。これが日本の労働の現場であり、そうでなければ経済大国には、なれなかったであろう。



— posted by wgft at 10:46 am  

ハンガリー問題

スエズにおける国連の栄光の反面では、ハンガリーにおける国連の挫折があった。当時ハンガリーでは、非スターリン化、民主化の声が高まってゆき、政権指導層の圧政に対する批判が、ようやくはげしいものになっていった。ハンガリーの知識層と学生は、ポーランドの一〇月政変の結果、より民主的なゴムルカの復帰が実現したのに勇気づけられて、ソ連とハンガリーとの関係の平等化、自由選挙の復活、言論の自由などを叫んだ。首都ブタペストにおける一〇月二三日のデモは、政治警察が発砲したために、民衆による反乱に変っていった。


反乱はソ連軍が介入したために、ますます民族主義的色彩を強め、全国的に拡がっていった。ソ連は一時はハンガリーを撤退したが、スエズ戦争の開始とともに、新しいハンガリー政府の要請なしに、より強力な軍隊でもって再介入してきた。アメリカ、イギリス、フランス三国は、ソ連がハンガリーの自由と独立をふみにじっていると安保理事会に提訴し、ハンガリーのナジ新政権も、ワルシャワ条約機構からの脱退と、ハンガリーの中立化を国連に通告してきた。ハンガリー首相は、安保理事会が、ソ連とハンガリーに対して、ソ連軍撤退のための交渉を始めるように呼びかけることを要請した。


ソ連軍の撤退を求める決議案が、ソ連の拒否権によって葬られたので、安保理事会は第二回緊急特別総会を招集することにした。総会は、ハンガリー人民の自由を抑圧するためにソ連軍が使用されていることを強く非難する決議を採択した。しかし、総会決議が採択された一一月四日、強力なソ連軍によるハンガリー一斉攻撃が開始され、ナジ政権に代って親ソ的なカタール政府が樹立された。カタール政権は、ハマショルド事務総長がオブザーバーを派遣することを内政干渉だとして拒絶した。事務総長が任命した調査のための五ヵ国委員会は、翌年六月に詳細な報告書を提出し、ハンガリーの反乱が、「自発的な民族的蜂起」であったこと、反動的なものではなく民主的社会主義の樹立を目指していたこと、ソ連軍の介入がナジ政府の意志にさからって行われたこと、などを明らかにした。


その後一九六一年まで、ソ連とハンガリーによる国連総会の無視を遺憾とする決議が毎年総会によって通された。しかし国連加盟国には、ハンガリーにつくられた既成事実を実力でくつがえすだけの決意はなかった。国連による実力の行使は、第三次大戦の危険を冒すものであったから、避けるべきだという意見が圧倒的だった。つまり、ハンガリーの悲劇は、その真相が国連報告書によって広く世界に知られ、それによって道義的な影響をカタール政権に及ぼしたであろうことを除けば、国連の存在にもかかわらず、国際政治の冷厳な力関係がまだ根強くヨーロッパを支配していることを感じさせる事件だった。



— posted by wgft at 08:42 pm  

 

国連の平和機構としての声価

また、国連軍はエジプトの同意があってはじめて派遣されたし、エジプト側の了解によると、その要請があった時には撤退しなければならないことになっていた。つまり、受入れ国の主権の尊重を前提にしているのである。だから二九六七年、エジプト政府が国連軍の撤退を要求しだときヽ国連事務総長はこれを拒否することができなかった。国連軍は構成においても、エジプトの希望を入れ、バクダッド条約機構に入っているパキスタンの軍隊などは、除外された。


また、国連軍は厳正に中立を守り、エジプトとイスラエルの紛争や、そのほかの政治問題に一切影響を与えてはならないことになった。これは、イギリスとフランスが国連軍の任務に政治的な意味をもたせ、自国軍隊が撤退してからの事態を有利なものにしようと画策したのに対し、国連多数国の要望をになったハマシィルドが、国連軍が侵略した国を利し、エジプトに政治的圧力を加える手段として利用されるのを断乎として拒否したからだった。つまり、国連軍は、侵略が行われる以前の状態に政治的バランスをもどすという、いわば静止的な役割を与えられたのである。その主な任務は休戦ラインを守ることにあり、紛争の根本的な解決は、別個の政治的、外交的次元の問題とされた。


第二次中東戦争では、イギリスとフランスが弱小国子『フトを軍事的にこらしめる政策に出だのに対して、アメリカとソ連は、ともに侵略防止の立場からこれに反対し、戦乱の拡大を避けることを望んだ。スエズ国連緊急軍が成功裡に結成され、その任務を果しえたのは、超大国米ソがともに、アジア、アフリカ諸国の平和を求める声を支持し、国連内に意見の大きな一致があったためだった。とくに、アメリカは国連を通じて積極的に事態を収拾する道を探った。


イギリスとフランスを停戦にふみきらせたものは、現象的には国連に結集された国際世論の広範な盛りあがりだったが、その背後には、アメリカが加えた経済制裁と第六艦隊による軍事的圧力があり、またイギリス連邦に属するインド、セイロンなどが連邦からの離脱をほのめかしたこと、イギリス労働党や民衆が一致してスエズ戦争に反対し、保守党の一部も停戦賛成派にまわったことなどがあった。


ソ連は、ブルガーニン書簡を発表し、ロケットによる英仏軍への攻撃を示唆しておひやかしたが、これに待つまでもなく、英仏両政府はすでに内外ともに完全な孤立に追いつめられていた。ピアソン外相が国連軍を提唱したことは、英仏にとってはまさに「渡りに舟」たった。第二次中東戦争を契機として、国連の平和機構としての声価は、きわめて高くなり、アジア、アフリカやスカンジナビア諸国は、大国の独善的な軍事外交に対する砦として、国連を強化することを誓いあい、希望をこめて新しい国際協力の時代が到来したことを語りはじめたのだった。




— posted by wgft at 08:39 pm  

 

国連軍の警戒線を破る

国連緊急軍は、二、三日のうちに組織されて、イタリアのナポリ空港に集結し、エジプトへの発進命令を待つばかりだった。やがて、ハマショルドとエジプト政府との交渉が成立し、一一月一五日には先進部隊がエジプトに到着した。国連緊急軍がつぎつぎと到着するにつれ、英仏イスラエル三軍は逐次エジプトを撤退していった。英仏軍の撤退は二一月までに完了したが、イスラエル軍は国連のたびたびの非難にもかかわらず、翌年三月になってやっとエジプト領土から撤退を完了した。


国連緊急軍には二四ヵ国が具体的な協力を申し出た。そのうちブラジル、カナダ、つロンビア、デンマーク、フィンランド、インド、インドネシア、ノルウェー、スウェーデン、ユーゴスラビアの一〇ヵ国からの約六〇〇〇人の派遣部隊が、国連緊急軍を構成した。英仏はもちろんのこと、ソ連軍やアメリカ軍の国連軍参加は、大国の利害を導入することになるから避けるべきだというのが一致した意見だったから、国連軍は中小国からだけで構成された。


また、スエズの国連緊急軍は、朝鮮戦争のときの国連軍が事実上アメリカの指揮下にあったのと違い、国連総会が直接これを結成したし、指揮官も総会が任命した。国連軍に対する具体的な指示や命令は、事務総長が自ら行い、七力国からなる諮問委員会がかれに助言することになった。事務総長に対する国連加盟国の絶大な信頼があってはじめて、こうした権限の大幅委譲が行われたのだといえよう。スエズに派遣された国連緊急軍は、戦闘目的ないし能力をもった軍隊ではなかった。それは軍隊よりも、むしろ警察に近いものだった。また、エジプトはもちろんのこと、この問題に関係した国すべての同意を前提として受けいれられた軍隊であるから、撤退をこばむ軍隊を武力で排除するなどということは、その権限外である。


そして「自己防衛」に絶対必要なときだけ武器の行使が許された。国連軍はイスラエルーエジプト国境のエジプト側に配置されたが、イスラエルが国境の自国側への駐留を拒否したので、イスラエル側には配置されなかった。この国連緊急軍は、いわば大通りに面したガラスのシJIウ七ンドーのようなものであり、それを壊そうと思うものがいれば容易に壊せるのだが、あまり大きな音がして周囲のものがみんなそれに気づいてしまうので、壊すだけの決心をするものがめったにでてこないのだった。国連軍の警戒線を破るのはたやすいが、そうすると、世界中から集中的な非難と攻撃を浴びせかけられ、その国は大いに不利になるのを覚悟しなければならない。



— posted by wgft at 08:37 pm  

 

エジプト、イスラエル間の国境の平和を保障する国連緊急軍の結成

11月1日の総会は翌朝4四時20分まで続いて散会した。その直前、カナダのピアソン外相がした演説の中に注目すべき提案があったことに気付いたものは疲れきっていた各国代表や記者たちの内に何人も居なかった。ピアソン外相は停戦が成立し、外国軍隊がエジプトを撤退しても中東の事態は以前の不安定な状態に戻るばかりで少しも平和の回復にはならないと指摘し、政治的な解決策を探っている期間、エジプト、イスラエル間の国境の平和を保障する国連軍が設けられるべきではないかと言ったのである。

午前4時30分、ニューヨークの漆黒の夜が少し白みはしめた頃、ピアソン外相は、やや懐疑的なハマショルド事務総長に国連軍をどうやって創ったらよいかについて自分の案を説明していた。国連ビルの2階では各国代表は寝ぼけ眼をこすりながら本国からの訓令を読んだり椅子に寄りかかってうたた寝をしていた。その間にも英仏軍によるポートサイド爆撃がつづいていたし、イスラエル軍はシナイ半島で残存しているエジプト軍の殲滅に取り掛かっていた。第三次世界大戦前夜の緊迫した空気がそこにあった。国連の中の人々には全世界の注目と祈りが彼等に集中していることが痛いほど感じられた。

ピアソンは11月2日の昼食をハマショルドと共にしたが、国連軍を具体的に結成する上での複雑な問題に思いを馳せていたハマショルド総長の眼は国連ビルから見下ろされるイースト川の白々と輝く川面を兎角追いがちであった。しかし、昼食が終る頃には国連軍を創る上での主な問題は2人の間で大体検討しつくされていた。国連軍の結成がイギリスとフランスに停戦を受諾させるのに必要な条件であることは明らかだった。3日夜の総会までにピアソン外相は主だった国々の代表と連絡し、彼等の了解を取り付けた。

11月4日早朝、国連緊急軍結成のプランを48時間以内に提出するよう事務総長に対し要請するカナダ決議案が、賛成57、反対無しで通過した。エジプトと共産圏諸国は棄権に回った。機敏を持って聞こえるハマショルド総長は、その日のうちに報告書を総会に提出し、パレスチナ休戦監視団団長のバーンズ准将を指揮官とする、5大国を除いた中小国からなる国連緊急軍を創ることを提案した。翌日、総会はこれを承認し、殆ど同時にイスラエルはエジプトとの停戦に同意する旨を通告してきた。しかしこの日、イギリスはポートサイドに上陸し、フランスの落下傘部隊も付近に降下してスエズ運河北部が英仏2国の支配に服すことになった。

ソ連は安保理事会でアメリカとソ連の海空軍が共同でエジプトに軍事援助を与え、イギリス、フランス、イスラエル3軍を撃退すべきだという強硬意見を述べた。一方イギリスとフランスはエジプトとイスラエルが停戦に同意し、国連軍が結成されるならば軍事行動を停止してもよいと声明した。とりわけ国内で世論と野党の厳しい批判にさらされ、国際的に完全に孤立したイギリスのイーデン内閣にとって国連軍が出来ることは政策の変更に都合のよい理由を提供し、休面をそれほど潰すとなしにイギリス軍を撤退させるのを可能にするものだった。

— posted by Arquite at 08:35 pm