アメリカの社会心理学者・ボガーダスの社会的距離スケール 偏見の程度を知る方法

偏見をなくそうと努力するためには、偏見がどの程度のものかを客観的に知っておく必要がある。そこで、最後に、偏見の程度を調べるためには、どのような方法が用いられているかを述べておこう。

アメリカの社会心理学者・ボガーダスは1925年に、次のような社会的距離スケールを作製し、アメリカ人の他の民族集団に対する社会的距離を調べた。すなわち、社会的距離が近ければ近いほど偏見が少なく、距離が遠いほど偏見が強くなる可能性も大きいというわけである。

ボガーダスの社会的距離スケール(近い順)

1.婚姻によって、密接な親戚関係を結ぶこと
2.親友として私のクラブに入ること
3.隣人として私の町内に住むこと
4.アメリカ国内で私と同じ職業につくこと
5.アメリカの市民権を与えること
6.旅行者としてアメリカに入国させること
7.アメリカ国内から排斥すること

この他にも偏見を調べるには心理学的にいくつかの方法があるが、要は、偏見とたたかうためには、その社会現象としての実態をあらゆる努力をはらって明らかにすることがまず肝心なことなのである。

社会を動かしている偏見は、どのように精神障害者を見るかという点からも理解できる。中世の魔女も現代の精神障害者も、また政治上の特別なレッテルをはられた人々も同じように偏見の被害者であったのである。

— posted by Arquite at 11:04 am  

ユーロは国際基軸通貨になる

理屈からすれば、いくつかの請求書の付加価値税の合算でも格差が生ずるはずだ。提示された例では、ユーロで納税した場合にいくばくかの利益が生ずることを示している。しかし、逆にユーロ移行へのコストも生じているから、この例では差し引きするとそんなに大きな問題にはならない。「だからといって、会計上の確認が免除されるわけではない」 解説は、さらに、法人税、個人所得税、職業税、不動産税について触れている。そのわずらわしさは並大抵ではなく、例解はそろそろ打ちきりである。閑話休題。疲れた頭に、ユーローパズルをひとつ。


シャンとジルベールとミシェルが一〇ユーロずつ、計三〇ユーロの税金を納めた。話のわかるフランスの税務署が、五ユーロの還付金をくれた。徴税請負人ピエールは、五ユーロを持って三人のところに出向いたが、三人に五ユーロは半端だと、一人一ユーロずつを返した。残りのニューロは彼の懐に入る。三人は一人九ユーロずつ払ったことになるから、払った税金は合計二七ユーロ。ピエールの懐にはニユーロあるから、総計は二九ユーロ。


最初の三〇ユーロのうち一ユーロはどこに行ったのだろうか。これはパズルだから種もあるが、現実の換算格差はどうしようもない問題として残る。証券業務委員会は「これは三年間の過渡期の問題だ。いずれ時間が解決する」と言っている。ひょっとすると、これは最大のユーローショックになるかもしれない。ユーロがドルとならんで、国際通貨の一環を占めるであろうという点では、ほとんどの専門家の間で意見が一致している。


円も加えて、国際基軸通貨の三極体制といういい方もあるが、ほとんどが形式論の域を出ていない。問題はそのバランスがどうなるかである。結論的にいえば、国際基軸通貨としてのユーロの地位は高まり、ドルの地位は低下する。それを占うのが、ドルからユーロヘの国際資金の移動である。これが本格化すると、国際的準備資産としてのユーロの地位が固まり、ドルからユーロヘの基軸通貨の移行は明らかとなる。





— posted by wgft at 11:11 am  

財政構造改革法

自治体の負担は一九九六年だけで一兆千七百億円にものぼり、市町村のなかには負担増をまかない切れず、児童手当、高齢者対策などさまざまな福祉支出を削減するところが続出した。一九八九年は、四月一日から三%の消費税が導入された年だが、同じ日に、竹下登政権が提出した「補助金一括法」を自民党と当時は野党だった社会党まで協力して国会で可決した。この法律によって、初めは「一年限り」、次には「三ヵ年の延長」だった福祉の切り下げが恒久化されてしまったのである。その後も、日本の社会保障制度は大きな荒波に揺すぶられる。


それは本書の主題である橋本龍太郎首相の六大改革、とくに行政改革と表裏の関係にあった財政構造改革と直接関係することだった。政府の財政制度審議会(会長豊田章一郎・経団連会長)は一九九六年七月に「財政構造改革を考える、明るい未来を子どもたちに」という報告書を発表した。この報告は、同年十月には『財政構造改革白書』として市販され、その後の日本の進路をめぐる政策論争の基礎にもなったものだが、要するに国家財政は危機に直面しており、少子・高齢化がピークを迎える二〇二五年に向けて厳しく歳出削減を求めたものだった。


この報告書を背景に、橋本首相は自ら会長になって「財政構造改革会議」を一九九七年三月に発足させたことはすでに見た。歳出の見直しには「聖域を設けない」とうたわれていたが、主な標的は福祉や年金を中心とする社会保障費たったことは、一九九七年十一月に国会で成立した財政構造改革法が雄弁に物語っていた。同法は、二〇〇三年度までに、単年度の国と地方の財政赤字の合計を国内総生産(GDP)の三%以内に抑えることを基本目標に掲げた。この三%は、一九九九年一月から欧州連合で始まる統一通貨制度に参加する加盟国の基本条件と同じである。


— posted by wgft at 11:05 am  

宗教が人間を『遺伝子の呪縛』から解き放った

「古事記」に見るような八百万の神々であれ西欧の唯一絶対の神であれ、宗教が文化と文明を生んだことは疑いがない。これは古代文明の荘厳な神殿の数々や、そこに描かれた宗教画を見ればわかる。だが、こうした表面的な現象よりももっと内面で、宗教が人類の文明に果たした役割の重要さにどうも宗教学者は気づいていないようである。

それは、「宗教が自由を生んだ」ということである。日本人の多くは宗教というと戒律を思い浮かべる。戒律は人を束縛する不自由なものだ、というのが一般的な感覚である。だが、それは誤りだ。宗教の戒律こそが人間を「遺伝子の呪縛」から解き放って、人間に「自由」を与えたものなのである。

イスラム教徒はイスラム暦の第九月のラマダーン月に断食をする。これは夜明けから日没までの間、いっさいの飲食を断ち、慎み深い生活を送ることである。断食と聞くと日本人はイスラムの人々は不自由だな、われわれは腹が減ったら食い、のどが渇いたらいつでも飲める。

むろん、トンカツであろうとラーメンであろうとコーヒーであろうと好きなものを食べることができるし、飲むことができる。だから、われわれは自由だ、とついこう考えてしまうのである。

たしかに、トンカツであろうとラーメンであろうと自由に選択でき、コーヒーだろうとコーラだろうと自由に飲むことができる。だが、それらの行為は裏から見れば、「腹が減ったら食え」「のどか渇いたら飲め」という遺伝子の命令に呪縛された不自由な行為でもあるのである。これはチンパンジーを見ればわかる。チンパンジーもまた腹が減ったら食い、のどか渇いたら「自由に」飲んでいる。

むろん、チンパンジーは果物を食べるか他のサルを襲って食べるかの「自由」も持っている。むろんこのことは、セックスや愛や攻撃性にも当てはまる。フリーセックスは裏から見れば「乱交せよ」という遺伝子の命令に忠実に従っていることであるし、近親者を愛し敵を憎むのは自然の感情である。チンパンジーは右の頬を引っかかれたら必ず反撃するか逃げるかする。左の頬を差し出すことなどありえない。「攻撃されたら逃げるか反撃せよ」というのが遺伝子の命令だからである。

だから、セックスに対してじつに禁欲的で、汝の敵を愛せと言い、右の頬を打たれたら左の頬を出せ、と説いたイエスの教えは、人間に「遺伝子の呪縛から自覚的に自由になれ」と教えた精神の大革命だったのである。遺伝子の呪縛から自由になることではじめて、人間は文化と文明を発達させることができたからである。

むろん、宗教の戒律は遺伝子の命令による呪縛とポジとネガの関係にあるから、逆にそれが人間にとっての栓枯ともなるのだが、戒律によって遺伝子の呪縛を自覚的に切断する行為がなければ人類が文化と文明を発展させることはありえなかったことだけはたしかである。

チンパンジーは断食することもセックスを禁欲することも左の頬を差し出すこともありえない。それゆえ、地球がSF映画の「猿の惑星」となることもないのである。チンパンジーは「遺伝子の呪縛」からの自由を得られないがゆえに、チンパンジーが文明を発達させてわれわれ人類を打倒する、ということにはならないからである。


— posted by wgft at 09:23 am  

十分な配慮のもとで催眠療法は行われる

催眠状態になると思わず心の秘密をベラベラとしゃべってしまうかもしれないと怖がる人が多い。こうしたことは心理治療のように、心の秘密を告白しても、それが治療者によって十分他言せず守られる場合であれば、ちょうど医者になら人前で見せるのをはばかる身体の部分も見せるように話すことができるだろう。


しかし、そうでない場合で、催眠状態になっても、言いたくないコトは、やはり言わないモノだ。催眠を実施する人も治療という専門上の必要がなければ、やたら心の秘密に触れるべきでないことは言うまでもないだろう。


このような十分な配慮の元で催眠療法は行なわなければならない。催眠に導く条件は暗示が安心して受け入れられるくつろいだ状態にすることが第一である。したがって本人がちゃんと承知しなければ催眠療法をやってはならない。


次に、本人の注意を集中させることである。このために19世紀のイギリスの外科医、J・ブレードが用いた「凝視法」と呼ばれるものがよく使われる。これは椅子などにゆったり座らせ、目の前になにか小さな物体、例えばネクタイピン、万年筆の先、画びょう、指先などをかざし、じっとそれを見つめさせ、段々まぶたが重くなる、目が塞がってくる、目が閉じてしまう・・・と繰り返し暗示する方法である。


そうすると物体の周りがボンヤリしたり、ハッキリしたりして、時には瞬きが多くなり、自然に目が塞がる。視覚的なものでなくて、目を閉じさせ、一定の音に注意をさせるのもよい。メトロノームや時計の音、机の上を鉛筆などで叩く音などを利用してもよい。


もう一つ、よく使う催眠誘導法は観念運動を利用する方法である。その中の「後倒法」は、目を閉じ、直立した姿勢で立たせ、次第に身体が後ろへ倒れてくる・・・と繰り返し暗示する。




— posted by wgft at 11:11 am