「前川リポート」の愚策

その不当な批判に、日本が屈したことを端的に象徴するのが、有名な「前川リポート」である。同リポートが発表されたのは、一九八六年四月であった。その趣旨を私流の言葉で要約すれば、ほぽ次のとおりだろう。


すなわち、「これまで(つまり『前川リポート』まで)日本は、『内需拡大』と『市場開放』とをサボつて巨額の貿易黒字を出し、アメリカはじめ諸外国に多大の迷惑をかけて、まことに申し訳なかった。しかし、日本はここで(つまり『前川リポート』を機に)悔い改めた。今後日本は、誠心誠意『内需拡大』と『市場開放』に努力して、必ず貿易黒字減らしをするから、勘弁して下さい」と。


しかし、黒字減らしのリポートであるにもかかわらず、そこには数字はほとんど書かれず、同リポートは抽象論に終始していた。近年のように「数値目標」を書くか書かないかが、交渉の大きな争点になるようなことは当時はなかったから、数字が書いてないことは読者に疑問を感じさせた。ところが、当時の日本の新聞は、その理由を次のように「解説」した。


つまり、「前川委員長は、数字を書きたくて書きたくて仕方がなかったのだが、それで手足を縛られることを嫌った各省庁が猛反対して、前川氏に数字を書かせなかったのだ。そのことに、前川氏は切歯掘腕している」と。


役人とは、しばしば指摘されるように、そういう姑息なことをやりたがる存在であることを考えると、それはまことにありそうな話なので、読者の多くは納得したかもしれないが、私に言わせれば、この「解説」は真っ赤なウソだった。「前川リポート」が数字を書かず、抽象論に終始したのは、実は、数字を書こうにも書きようがなかったためである。私かそう考えたのは、当時私が行った素朴きわまる目の子算の結果である。その計算の概要を、次に説明しよう。


— posted by wgft at 10:24 pm  

大統領のイメージーアップ作戦

その夜テレビ中継された国民へのメッセージの最後で、大統領は「詩篇」から「死の影の谷間を通るときも、貴方がともにおられるので私は悪を恐れない」を引用し、「グッドナイト アンド ゴッド プレス アメリカ」と結んだ。だが、アメリカ国民は恐れることなく安らかに眠れただろうか。飛行機で自宅へもどることを予定していた旅行者は、飛行機が飛ばないので長距離バスヘ殺到し、眠れぬ夜を走るバスのなかで過ごした。不意をつかれた緊急事態に市民はどういう目にあうか、この日アメリカ市民の多くがそれを体験した。


九月一二日の新聞は、WTCとペンタゴンでの惨事を写真入りで大きくとりあげた。地元のワシントンーポストを除き、当日のブッシュ大統領の行動は記事のなかにうめこむ形でそれとなく扱われた。たとえば、影響力が大きいニューヨークータイムズは、まともに非難するのではなく、歴代の大統領との比較を読者にうながすつぎのような疑問を投げかける程度にとどめた。


「キューバ危機でソビエトの核ミサイルが打ち込まれるかもしれないなかで、ケネディ大統領はワシントンにとどまった。プッシュ氏は、イラン人質事件を解決できず無能として傷ついた力ーター大統領であることを証明するのか。スペースシャトルの爆発のあとのレーガン大統領のように、またオクラホマの爆破事件のあとのクリントン大統領のように、評価を高められるか。ブッシュ氏は声明のなかで「わが偉大なる国の決意がテストされる」と述べたが、いままでになくきびしく彼もテストされている」。


だが、保守的な論調で有名なボストンーヘラルドは、はばかるところなく「大統領の行動は自信を鼓舞しなかった」と批判した。各紙のこうした論調にたいする大統領府の対応は、みずから墓穴を掘ることになった。ブッシュ大統領自身は最初から直接ワシントンヘもどるつもりだったが、側近の判断でおくれたことを理由にしてまず切り抜けようとした。そうしないと、大統領が臆病で逃げまわったことになってしまうからである。


大統領は憲法によって最高司令官であると定められている。だが最高司令官として、搭乗機を自分が思う方向へ舵をきれとは命じなかった。誰かがよほど強く、それを止めたことにしなければならなくなった。言い訳すると、つぎつぎに言い訳をくりださねばならなかった。


— posted by wgft at 04:43 pm  

中華民国から新中国

日清戦争の翌年一八九六年十三名の官費留学生を日本に送ったのが最初といわれているが、これは東京高等師範学校長である嘉納治五郎が当時の文部大臣兼外務大臣の西園寺公望の依頼を受け、この十三名の教育を引き受けた。一八九九年、最初の七名が優秀な成績で卒業し、同年更に十一名の留学生を引き受けた。一九〇二年一月に制度・内容を充実して神田三崎町から牛込西五軒町に移転して学校名を「宏文学院」とした。また留学生の名前はすべて明らかになっていないが、教育内容は多岐に亘っていた。(日本の留学生に関しては神戸大学の発達科学部研究論文(二〇〇三年)を参照した。)有名な魯迅もこの「宏文学院」で日本語を学びその後一、九〇四年に現在の東北大学医学部に移っている。


又、孫文が東京で中国同盟会を設立(一九〇五年)し、留学生や華僑を集めて漢民族の国家を作るために運動したことは広く知られているが、孫文の内閣で十八名の部長と十五名の副部長は各国の留学生組が占めたという。(二〇〇五年四月一四日号の「南方週末」薫書華)この意味では、中国では公式に語られることが少ないが中国革命に日本も少なからず貢献してきたといえる。辛亥革命後、確かに形は「中華民国」(一九二一年)という国家ができあがったが、中身は安定しておらず、また、政治的には封建体制をそのまま引きずっていたので、国家が安定するには毛沢東による中華人民共和国成立(一九四九年)を待たねばならなかった。私は中国が社会主義国家の体制をとらざるを得なかったという考えであるが、その理由としては、中華民国にはなったが、国としての体をなさない状況の下でしかもその中身は、封建社会からの脱却ができない状態にありながら且つ各国が中国に侵略しているさなかに軍閥の利権争いに明け暮れていた。


その為、中国という国を守るには、封建社会と旧軍閥と諸外国との戦いを同時にせざるを得なかったのであり、中国を統一する為の思想として社会主義体制をとらざるを得なかったということである。またその体制が取れた理由のひとつに、一九一七年のロシア革命の成功が中国の勤労者たちに、自らがまとまる為の希望を見い出させたことが挙げられる。多くの憂国の士の趙世炎、王若飛、李立三、陳毅、周恩来、郡小平等海外留学組みが、欧州の第一次世界大戦(一九一四年)後の不況のさなか、過酷な資本主義社会を自ら体験したので、このことも中国が社会主義体制に向かう大きなきっかけになったことであると私は考える。


上記は主にフランス留学組みだが、新中国成立後、長年中日友好協会名誉会長を務めた郭沫若も一九一四年に日本の第一高等学校予科で日本語の勉強後九州大学医学部を卒業している。更に中華人民共和国成立後最初(一九五二年)に中国に日本の代表団を受け入れた孫平化も現東京工業大学に一九三九年に留学し一九四三年に帰国している。又、留学としてよりも一時的亡命に近かったが中国共産党の創設者の一人である陳独秀(後にトロキストとして党から除名)も東京高等師範学校や早稲田大学で学んでいる。同じくメンバーの李大釧も早稲田大学に学び、周恩来も一九一七年から二年間東亜高等予備学校で日本語を中心に学んだ。蒋介石とは孫文が設立した黄墟軍官学校の同僚である。


ちなみに蒋介石も一九〇六年に清朝政府が軍人養成のため設立した保定軍官学校に入学し、翌年、清朝の官費留学生として日本に渡っている。まず日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学び、後に新潟にあった陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校となった。蒋介石もまた中国同盟会に名を連ねるのだが、軍人としての素養は日本で育まれたと言われている。もしこの留学組みがいなければ、中国の社会は今どうなっていたか分からない。中国の近代革命がなされない中で(各学者や歴史研究家の間では短い期間だがブルジョア革命はあったと言う人もいる)、中国を欲しいままに侵略している諸外国と彼らが戦わざるを得なかったこの時ですら、中国の多くの農村は国家の一大事の蚊帳の外であった。この事実が後に毛沢束の革命理論に結びついて行くのであると私は考える。


— posted by wgft at 10:43 am  

金融政策の目的は物価の安定

いくら推計式があっても、それを機械的に使って百パーセント完全ということはありません。微妙なアートの部分は存在します。ただ、その「アート」の部分も経済分析が土台になることはいうまでもありません。二〇〇六年末の月例経済報告で「政府・日本銀行は、マクロ経済運営に関する基本的視点を共有し」という文章が挿入されました。それならば、共有されている「マクロ経済運営に関する基本的視点」を数量化すべきです。それが曖昧なために、百家争鳴の議論がわきあがり、マーケットが影響を受けるのです。「フィナンシヤルータイムズ」紙社説が日本へ提言しているインフレ目標は、目標を数量的に明確にし、その一方で、金融当局がその達成のために独立して金融政策手段を実施できるというものです。

本当の日銀の独立性を確保するなら、ただちに採用すべきでしょう。そうすれば、日銀の地ならしも不必要になり、マーケットも余計な騒動に巻き込まれなくなります。ただ、この期に及んでも、インフレ目標がなかったほうがよかったという意見が日銀内にあります。○八年の中ごろに、エネルギー・資源関係の一部の価格が上がったとき、「インフレ目標を厳格に適用するなら、引き締めをしなければいけないが、引き締めは望ましくない。だからインフレ目標は余計な政策だ」という論調が一部にありました。そのような心配は、目標を設定すれば、まず不要です。ただし、いまの日銀のようなコアCPIの目標ではダメでしょう。

一言いっておきますと、インフレ目標を嫌う人は、結果責任をとりたくない日銀役人か、日銀役人は全知全能なので縛りは不要という前提の人だけです。インフレ目標はそんなに融通の利かない政策ではありません。中央銀行に説明責任をもたせるものです。もし、形式的に目標をはみ出ても、説明すればいいだけです。何をそんなにいやがるのでしょうか?インフレ目標は「制約された裁量性」ともいわれています。日銀は、責任も制約もない「完全な裁量性」を求めているようです。この章では、金融政策と株価の関係をみていきたいと思います。まずは、ここ最近の金融引き締めの株価への影響です。ここまで読んできた方は、どういうケースで中央銀行が金融引き締めを行うのか、だいたいわかっているでしょう。

金融政策の目的は物価の安定ですから、景気が過熱してインフレ懸念が出てきたときに利上げをして、沈静化をはかります。日本とアメリカ以外の先進国は、インフレ目標というものが明確にあり、物価上昇率(CPI)が目標を超えてはみ出すようになったら、金融引き締めを行います。株価は経済を映す鏡だとよくいわれます。また、実体経済に影響を与えるまでに一~二年のタイムラグがある金融政策と株価には直接的な関係はないという意見もよく聞きます。実際のところどうなのか、みていきましょう。

二〇〇六年三月九日、日銀が量的緩和を解除しました。同日の午後二時すぎにNHKテレビが異例のニュース速報を出すなど、この日はこのニュースでもちきりでした。ただ、金融政策が、中央銀行総裁会見の前にテレビ報道されることには、大きな違和感があったことは否めません。この量的緩和政策が導入されたのは、さかのぼること五年の二〇〇一年三月一九日でした。その導入は、二〇〇〇年八月一一日に行われたゼロ金利解除という「金融政策の失敗」に起因しているのは、すでに触れたとおりです。


— posted by wgft at 06:25 pm  

ブータンとの出会い

わたしがはじめてブータンのことを知ったのはいつのことだったか、定かな記憶はない。一九六六年四月に大学に入学して、東洋仏教史、ことにチベット仏教史を専攻した以上、チベット仏教圏の一部であるブータンのことは、在学中に何かで読むなり、どこかで聞いたりしていたことは間違いないであろうが、記憶にはない。一九六九年九月にフランスに留学し、三年間チベット、ネパール、インド関係の講義をいくっも聴講したので、その中で必ずやブータンへの言及があったであろうが、またしてもこれといった記憶がない。


それでも、ブータンの存在を知っていたことは確かで、一九七二年九月にフランスから日本への帰路インドに立ち寄った際に、ネパール、シッキム、ブータンといういわゆる「ヒマラヤ三王国」も訪れようと思い、ニューデリーのブータン公館(当時はまだ大使館ではなかった。大使館となったのは一九七八年のことである)に入国許可を申請に出かけた。チャナキャプリという外国の大使館・公館が立ち並ぶ地区のはずれにあったブータン公館は、ブータンのゾン(城塞兼僧院)を模した建物で、印象的であった。しかし、それ以外にはその時の記憶は一切なく、入国許可に関しては、当時、鎖国下であったため、もちろん門前払いを食らい、一枚の折り畳みのブータン案内パンフレットをもらっただけである。


ブータンは、秘境とされるチベット文化圏の中でも、もらとも入国が難しい秘境中の秘境で、一九七〇年代以前にブータンを訪れた外国人は、ほんの数えるほどしかいなかった。その上に、一九七二年の七月二一日に第三代国王ジクメードルジエーワンチュックがアフリカのナイロビで客死し、ブータンは喪に服し、弱冠一六歳にして即位した第四代国王ジクメーセングーワンチュックの治世が始まったばかりであった。当時のわたしは、このブータンにとっての最重要出来事すらも知らなかった。今振り返ると、若かったとはいえ、チベット研究者としてはあまりにも無知であった。いずれにせよ、これがわたしのブータンとの最初の接触であった。


今から三五年前、ブータンは本当に秘境であり、外部にはその存在すらほとんど知られていなかった。現在少しは知られるようになったとは言え、本書の読者も含めて多くの人にとっては、ブータンは依然として「未知」の国に近いであろう。それ故に、本書を読み進んでいただくために、まずはブータンという国を手短に紹介することにする。ブータンは大ヒマラヤ山脈東端近くの南斜面に、インドと中国というアジアの二大大国に挿まれて位置する小さな王国である。北は中国のチベット(西蔵)自治区に接し、東西および南はインドのアルナチャループラデシュ、西ベンガル、アッサム、シッキムという四つの州に囲まれている。


面積は約四万六五〇〇平方キロメートルで、九州(四万二〇〇〇平方キロメートル)よりやや大きく、人口は約六〇万人(二〇〇五年の統計)であるから、人口密度は一平方キロメートル当たり一三人ときわめて低い(ちなみに日本の人口密度は三四三人。二〇〇五年)。国土の七二パーセントは森林で、二〇パーセントは万年雪に覆われており、農耕地は八パーセントしかないが、ブータン全人口の五人のうち四人が農業により生計を立てている。七世紀前半にチベットのツェンポ(皇帝)ソンツェンーガムポにより、各地にお堂がいくつか建てられた、と伝えられているが、詳しいことはわからない。八世紀後半に、インドの高僧パドマサッバヅアより、本格的に仏教が伝わった。二一世紀以後、チベット大乗仏教の各宗派があちこちの谷に広まり、寺院も建てられたが、群「宗」割拠の状態で、国としてのまとまりはなかった。




— posted by wgft at 03:12 pm