地方の初等学校を終えたのち、デブリングルのギムナジウムに進学して、一九三二年に卒業した。十九歳でウィーン大学に入学するが、フロイトもここでちょうど半世紀前に学んでいる。途中一九三六年にパリに行き、医学的訓練をうけて、一時、パリの病院で働いたが、一九三八年に医学部を卒業した。フロイトをウィーン駅頭で見送った半年後である。
大学生時代に精神分析に関心をもっていたコフートは、フロイトのあとを追って英国に渡るが、英国では移民キャンプに収容され、一九三九年の前半をすごした。ロンドンにいる母方の叔父ハンスニフンプルを頼って一年ほど過ごしたあと、一九四〇年に米田に渡り、シカゴ大学医学部に学んだ。
シカゴ大学では神経学の教室の臨床医となったが、その後、精神医学に変った。それは彼がフロイトと同じ道を歩もうとしたからである。フロイトも最初は神経学を学び、その後、ヒステリー患者の催眠療法などの臨床経験を通して精神分析学を創り出したからである。ただ、ここで注意しておきたいのは、コフートは戦後の最新の神経学と精神医学を、しかも米国のこの分野での代表的な研究を行なっているシカゴ大学で学び、ヨーロッパ流の占い精神医学の肘を洗いおとしたということである。これがのちに精神分析学の「革命」をもたらす基盤となったのである。
コフートはシカゴ大学で学ぶと同時に、シカゴ精神分析学研究所を一九四八年に卒業し、そこの所員となった。彼はルースーアイスラーから二度目の教育分析を受けている。コフートぱ四つの目標をもっていた。第一はすぐれた精神分析家になることで、彼の患者はコフートが大きな共感と忍耐を治療中に示したことについて語っている。第二は精神分析学のよい教師になることで、シカゴ人学やシカゴ精神分析学研究所では、まず質問から始めて、学生だちとともに創造していくような教え方で、彼のカリスマ性は聞くものをふるいただせたといわれている。
第二は精神分析学会でリーダーシップを確茫することで、一九六〇年には米国精神分析学協会会長になり、就任演説では「応用精神分析」を提唱した。しかし一九六九年の国際精神分析学会会長のポストにはつけなかった。ライバルであったレオニフングルの策におとし入れられたのである。しかも、一九七〇年にはシカゴ精神分析学研究所の迷営委員にも再選されなかった。同僚の嫉妬によるものとされている。
日本心理学会
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